【生活における〈在る〉の取り入れ方】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎ex.『コーヒーが飲みたい』と思考がやってきたら、その思考がやってきた事に「気付き」また〈在る〉を忘れることなく、コーヒーを飲みなさい。
◉手がカップを持つ/身体がコーヒーを飲むことに「気付いて」いる事が重要な為。
【=ただ、見守る】
★思考/行為する身体も、貴方ではない。
※思考の通り「全てをやる」のでは無い。
ex.「あいつを殴る」という思考がきて
「思考は、私ではなく、関係ないから!」と、そのまま殴るのでは無い。
【いつのまにか思考/幻想に囚われた場合は?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎それに気付いた時、再度
『思考を手放す』と言って、在り続けるべき
ex.教えのことを、考え続けて
『私があれこれ考えている』という感覚があるならば、単に思考と同一化している。
◉如何なる「教え/知識」も意味が無い為。
★『私は〈神の子〉だ』と言ってはならない
それを言うのは〈神の子〉ではなく、思考。
=その時、貴方は思考に成る。故に…
【〈神の子〉を選択していない】
【自我のトリックに、掛からない方法】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎思考/行為と一つ(=全一)になること。
→そして思考/行為も、自分のものとして受け入れる。
=【自分の全てを愛する】ということ。
◉全一と成りきった場合、そこには同じように「思考者/行為者」も存在しない為。
ex.ぶん殴ることが起こるならば、ぶん殴っても構わない。
➡︎他者から、どのように思われても
【無邪気な子供の様に純粋に楽しめるならば何であれ、それをすべき】
=起きることが起きるなら、あるがまま起こさせなさい。
同時に、高貴な存在になろうとせず、、
【純粋な存在で在りなさい】
★純粋な存在で在る時に、善悪/価値判断/分別は無い。
=音楽と一緒。
流れなさい。
貴方が演奏するのではなく
貴方が【音楽そのもの】となりなさい。
その音楽を善悪の判断する者が居てはならず、気付くことは「思考/行為を否定すること」と勘違いしてはならない。
【自我のトリックとは?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎頭で理解しようと、考え続けること。
◉ex.『私は〈神の子〉それが真実』
➡︎全く真実ではなく【ガラクタの知識】に、過ぎない為。
★【全てを手放しなさい】
『私は、思考を放棄する』と思考に言わせて(=私が言う)それから〈在る〉を選択。
➡︎そこから〈在り続ける〉べき。
如何なる思考が浮かんでも、見守るだけ。
【如何なる考えも放棄し、ただ流れるまま】
【(改)私とは、一体何か?】
それ”は在る
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎『私は思考である』という観念が無くなるまで、思考である。
ex.「私は思考ではない」と言うのが『思考』
→思考である私が、観念放棄を続ける。
◉『私は思考ではない』という知識すら手放して、ただ〈在る〉だけを選択すべき為。
★『最後には教えそのものを放棄しなさい』
『一切の知識を、放棄しなさい』
【〈在る〉の矛盾点とは?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎私は
「何もしないべきか? or するべきか?」
◉思考≠私→誰が学んでいるのか?
思考/身体≠私→観念を放棄するのは誰か?
➡︎全ての思考/行為は私の手にはない。
全ては既に決まっていて、起きる事は起きる
【悟る時も、既に決まっているのでは?】
→そうなると、努力する必要性は?
しかし「観念を放棄」する程、旅は短くなる
≒苦しみを少なく出来る。
【思考は、私の手には無いのに。。】
【「私は、選択者である」とは?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎私に「人の子/〈神の子〉」か、選ぶことが出来るという意味。
※人の子=束縛/全く自由がない。
故に孤独であり、幸せであることが出来ない
→これまで経験してきたことであり、歩いてきた道のり。
〈神の子〉=全く未知なるもの。
人の子が知ることは出来ない。
それでも〈神の子〉を選択できる。
〈在る〉ことで、信頼を深めながら。
◉幻想の何かと自己同一化が起きてしまった場合、そして「同一化してしまっていた」と気付いた時に「私は、選択者である」と思い出すこと。
➡︎〈在る(=神の子)〉が完全なる自由だと、気付き始めている為。
★〈在る〉を選んだ時だけ、完全なる自由を手に出来る=〈在る〉以外は、全て束縛。
【私とは、一体何か?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎〈在る〉であり、既に完全であり、完璧。
◉思考/記憶/身体、全て〈私〉ではない為。
起きることは、ただ起きて、ただ去る。
そして、それを経験しなければならない。
それに対して〈私〉は何も出来ない。
思考/記憶/身体では無いので〈私〉には
何も変えられない。何の権限もない。
➡︎全ては、高次の存在である作者が変える。
★〈在る〉に身を委ねなさい。
観念を放棄し、全てを手放す。
そして、ただ安らぎなさい。
全てを赦しなさい。貴方は救世主である。
貴方しか、貴方の世界を救えない。
【シンクロニシティとは?】
【何故、教えを求めるのか?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
=答えが欲しい。
※教えを学びたいとは、思っていない。
→教えを聴いているうちに、学ぼうという気になってくるだけ。
➡︎答えだけを探しているうちは、その者は答えを見つけ出すことが決して出来ない。
【学ぼうとしていないから】
ex.小学生に、算数を教える。
→「早く教えて!」と言われるが、教えて欲しいのは「答え」
→『解き方』を教えるが、学ぶ真剣さが無ければ、算数を覚えることが出来ない。
且つ「ちゃんと教えて!」と言う。
=真理を求める者も同様。
『苦しみから解放されて、自由になりたい。早く幸せになりたい→早く答えが欲しい』
【結論:答えを求めることが、問題】
➡︎それにより、更に求めることを強化。
何故なら、理解できない為。
学ぼうとして、理解出来ないのではない。
ただ救いがやってくるのを待ち続けている。
※『誰かが、いつか私を救ってくれる』という観念がある為。
【結論:貴方自身しか、貴方を救えない】
※知識とは?
→教えは知識に過ぎず、知識は言葉に過ぎず
=真実そのものではない。
➡︎この「知識」という道具を使うか否かは、知識を得た貴方次第である。
【時間と空間の関係性とは?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
→「時間がかかる」=「空間が存在する」
=両者、実のところ【一つ】
➡︎従って「時間の消滅=空間の消滅」
ex.ある地点〜ある地点へ移動するには、時間がかかる
=【何処かへ行こうと、どれだけ時間がかかろうと「今ここ」において成される】
→時間と空間は『在る』の中に、即ち貴方の中にある。
ex.〈私〉の中で場所が移動し、時間が流れているように、何処へ行っても〈私〉が存在している。
【〈今ここ〉での、人生とは?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎(現実で、何も知ることが出来ない故に)
楽しい。
ex.結末の分かっている映画は『楽しくない』
➡︎この幻想世界も、リアルに感じられる。
◉我々の創造主は
【〈今ここ〉に、全てが既に書かれており、全てが存在している】事を知っている。
しかし、我々は知ることが出来ない為。
★その人生を実際、生きている!故に…
全てが既に書かれていることを、知るのは不可能。
➡︎ドゥクシャは
『幻想世界の始まり〜終わり』迄
既に完成されていると知っている。
我々と同じように物語を、その瞬間を共に生きながらも…
【全てが、もう終わっていること】を、理解している。
ex.我々が、書物を読むような感覚。
【〈今ここ〉とは?(時間編)】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎全ての時間と空間を含有した『永遠の今』
※時間の中に、あるのではない。
※永遠(無限)=時間/空間ではない。
概念を超えたもの➡︎つまり〈在る〉こと。
→〈今ここ〉とは、存在そのもの。
【存在そのもの=自分自身(I)】
〈今ここ〉の中に、時間と空間の幻想がある
=誰もが〈今ここ〉でしか、いきられない。
◉つまり【未知の領域】
→未知とは対象でないが故に〈私(ME)〉は、それを知ることが出来ない。
=一切を超越している。
➡︎時間と空間を超越していながら、この時間と空間の中にも存在している。
ex.グラスの外側は、空間が包み込む。
しかしまた、グラスの内側にも空間がある。
★〈私〉が消滅する場所とは呼べない、その場所※消滅は「過去」で起きる為?(見解)
=【〈無〉であり〈在る〉】
≒(感覚的には)〈真我〉状態
→完全に自己と一体化した場所(自己に戻る瞬間)その瞬間が、永遠に続いている瞬間。
=【〈今ここ〉であり〈在る〉】
【〈今ここ〉とは?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎〈無〉
➡︎完全に満ち足りた〈在る〉
→完全さ故に〈今ここ〉でのみ、全ての変化が可能。
◉何も存在せず、ただ存在そのものだけ存在
【〈永遠〉そのもの】
※補足:知る者と知られる者が出会い、両者が互いに溶け合い、1つとなる場所。
★(過去/未来において)
知る者と知られる者も存在しないので
「あれ/これ」という対象は出ない。
=場所とも言えない〈無〉
★何かを得て幸せを感じるが、その幸せとは初めから〈今ここ〉に在ったもの。
→その幸せは、得るでも去るでもない=幻想ではない。
【エゴから見た、私とは何か?】
引用元:“それ”は在る 著者/ヘルメス・J・シャンブ
◎(思考を観ることで気付いた)沈黙/無/空
=静寂の空間(≒在る)
➡︎それを見出した時〈ME〉は、思考があっても〈ME〉は存在せず、ただ思考に気付いているだけ。
※ここまでの説明を得た「体験(=対象)」と共に〈ME〉は、再び現れる。
→(対象)があるが故に、認識する〈ME〉が存在=【自我(エゴ)】
→上記一連の「体験(=対象)」を話する事は「過去」
➡︎話すことは構わないが…
その際、思考や想念に巻き込まれた場合
【〈今ここ〉に在りながら、過去の体験に生きている】
◉「今!」と言っても、その瞬間過去になる
ex.「私は成功した」は過去の体験で〈今ここ〉ではない。
→思考や想念で成り立つ自我(エゴ)は〈今ここ〉で生きることが出来ない。
※自我(エゴ)が生きる為には
「時間という幻想」が必要。